fc2ブログ

ハイドン弦楽四重奏曲67番「ひばり」

 穏やかに晴れた日曜の午前、ラジオから流れてくるこの音楽に魅了された。以来ハイドンは大いなる幸福とともにある。時はひばりのように空たかく天翔けり浄福に満たされて憩うてくれた。
「天才とは、己が芸術に携わることに言いようのない愉悦を見出すあまり、一切の障害をものともせずに精進をつづける人の謂だ。この奔流に堤防を築いてみるがいい。やがて名だたる大河となるべき流れなら、みごとにそれを覆してしまうだろう。」(スタンダール「ハイドンの手紙」第四)
 敏捷な幸福の狩人、スタンダールはハイドンに寄せて長く熱い心情に溢れた22本の恋文のような手紙を書き綴っている。
「芸術においては、そして、僕の信ずるところによれば、およそ独創性を認容するかぎりのあらゆる人間の活動分野においてもまた、人は自分自身であるか、またはゼロであるかのいずれかだ。」(手紙22)
 スタンダールにおける音楽は愛する女性と同様に、歓喜を与えてくれるものであれば充分で、ソナタとカノンの違いなど知る必要はなかったのだ。その証拠というわけではないが、音楽評論家の吉田秀和は「私の好きな曲」のハイドンにおいて、その音楽の特質に「自足性」を挙げている。
「ハイドンをきくたびに思う。何とすてきな音楽だろ、と。
 すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。言うことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。・・・こういう人を好きにならずにいられようか? こういう芸術を好きにならずにいられようか?」
「ハイドンの弦楽四重奏曲ほど純粋な線をもって書かれた音楽的論理の美しさを示しているものはなく、その美しさは芸術的なものを越えて美であると同じくらい善であり真であるものの輝かしい結晶になった。」

(この上もない吉田秀和のハイドン賛歌の文章の引用中、酷暑のせいもあり、私の神経の酷使の故に加熱を抑えようとして嚥下した薬の誤使用のため、敢えてブログ作成を中止の止む無きに至ったことをお断りしたい)
 スタンダールの書簡中に、「偉大なるペルゴレージ」なる文句を発見せり、名前のしたに生没年がつぎのごとく認められていたことを補足する。1704年生まれ、1733年没とあった。)








加藤典洋試論(2)

 今は亡き文芸評論家、加藤典洋については、「加藤典洋は、むずかしい」という加藤さん自身が、村上春樹を論じた本のタイトルに通じるものがあるといえよう。それは「敗戦後論」(1997年)と同年に上梓された「この時代の生き方」に散見されるもので、「理解することへの抵抗」や「カフカの言葉」にある「語り口」と言ってもよい。さらにその文体にある独特な屈折率がこれに加わるのだ。
 この本の「時代の課題の形ーあとがきにかえて」からそれを抜き出すと、「この本におさめられた文章の特色を一言でいえば、わたしの発想の原型が、よく現れているということだろうか」という加藤氏(「以下「加藤さん」)自身の自覚に示されているものだ。自分の「実感」をまず大切にする姿勢です。「漱石の『自己本位』というのはそれこそジコチュウのことなのだ」というように。村上春樹の小説「風の歌を聴け」の語り手の主人公が口にする「気分が良くて何が悪い?」に「世界に対する肯定の気分」を感じ取り、「『大きな物語』は消え、世界はくつがえった」この時代の課題をみようとする姿勢は、この村上のデビュー作を1980年代以降の感性を先取りしたものという評価から、一連の村上春樹への追跡の起点となります。「村上春樹は、むずかしい」(「岩波新書」2015年)はこれに句読点をうつもので、それ以降の4年間を加藤さんは燃え尽きるかのように生きた。
 加藤さんはサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の精神分析医のつぎのことばをひいている。

  未成熟な人間は、思想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間は、理想のために卑小な人生を選ぼうとする点にある。

 そして続けます。「しかしサリンジャーはそうであればこそ、この言葉になんとか負けたくないと思い、この小説を発想している。つまり彼は、ここで、イエスが真理の側にないと証明されてもイエスの側につく、といったドストエフスキーとほぼ同じ場所に立っていると考えてよいので、この言葉が真理だとしても、真理を人に与えられると見るのは間違っている、真理とはそういうものではない」そう読者に語っているのである。ここに加藤さんを特徴づけるある「語り口」が顕われている。作家の高橋源一郎氏(以下「高橋さん」とする)の論考(「群像」2019年9月号)は短いものですが同時代を生きた高橋さんの鋭敏な観察と温かい触手が感じられます。加藤さんの「さようなら、ギャングたち」への文庫解説から、「あっ、わかられた」と直感した高橋さんの小論には、つぎのような明敏な感想が記されています。
「加藤さんの書くものは、すべて、『世界に新たな氷結を促すため』、『先の文の文脈を殺し、新たな文脈を作る。殺し屋』だったのだ。(中略)。アーレントの『語り口』もまた、『世界に新たな氷結を促す』ための文章なのだ。そして、『そこ』にだけ、個人が存在するのである」(注1)

 ところで、代表作の「敗戦後論」は三つの章立てで構成されている。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の三つです。加藤さん自身が述べていることですが、「敗戦後論」が政治篇、「戦後後論」が文学篇、「語り口の問題」がこの両者をつなぎ、その他の問題意識と相渉るところで書かれた、蝶番の論である。そして、この起点が、1985年の「アメリカの影」にあり、近くを取れば、1991年の湾岸戦争をめぐる日本内外の動きにある。さらに遠くには、加藤さんの中で小説と批評が分裂した、1970年代初期にまでそれを遡及させることができるかも知れない、と。
 この単行本の「敗戦後論」の「あとがき」にみられる加藤さんの文章は、氏を語る場合に見逃せないところなので、そのあとの高橋の数行を引用しないわけにはいかない。
「その点で、もっともわたしに意味あると思われるのは、『戦後後論』が展開している議論であり、そこに書いてあるように、わたしがこの間の考察でたどり着いた結論の一つは、政治と文学、他者と自己の対立は、その後者、文学、自己の観点に徹する時にのみ、解除される、ということ、つまり、この二つは、対立しない、ということである」
 さて、加藤さんのこの「あとがき」には、その後の氏の著作活動の起点となる重要な態度表明が、迫力のある筆致で綴られていることは明白ですが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」から「ドストエフスキーとほぼ同じ場所に立っていると考えてよいので、この言葉が真理だとしても、真理を人に与えられるものと見なすのは間違っている、真理とはそういうものではない」や「敗戦後論」の「あとがき」にみられる「政治と文学、他者と自己の対立は、その後者、文学、自己の観点に徹する時にのみ、解除される、ということ、つまり、この二つは、対立しない、ということである」に見られる加藤さんの独自の思考が、それほど容易には理解しがたいところなので、この難所をクリアーしておかないと、「加藤さんは、むずかし」ということになるのではないか。そして、そこにこそ加藤さんの主張の要点があるので、追々に敷衍していきたい。
ここでカフカの青年詩人への助言にあるように、急いではならない。ゆっくりとした歩みが必要とされるのだ。

 そこで、私は当面上記の「この時代の生き方」から加藤氏の語りの姿勢を追ってみることにする。それはまず「平和」について学生をまえに語る際に加藤さんが書いているつぎの事柄である。
「なぜこんなに『平和』と口にすることが恥知らずに感じられるか、この言葉が自分にカッタルいか、腹に沁みいるようにそのことを確認した」そして、加藤さんの評論活動を画した「敗戦後論」への言及がつづくのである。
「この一年、わたしは久しぶりに戦後という問題に触れ、死者の弔い方を考えなくてはならないとか、戦後の自分騙しから回復しなければならないとか、憲法を国民投票で選び直せだとかいうことを主張してきたが、その始点は、このカッタルさ以外のものではない。どんな場合にも、どれほど遠回りになろうと。人は、自分の実感からはじめる以外にないのである」
 ここから加藤さんが強く影響をうけた吉本隆明が「超越的観点」と「大衆の原像」的観点とに引き裂かれたと言及したオームの事件に触れ、「わたしは逆にこの事件を前に、そういう超越的観点にも『大衆』的視点にも立っていない自分に気づく。(中略)こういう深刻な問題を前にすると、ホルデン・コールフィールドでなくとも、急に眠たくなる」と述べ、「実感」の誤謬性を強調しこれを喚起しながら、ジコチュウがこの時代に生き抜くカギと大切な技法はひそんでいるのではないかと、この本の「あとがき」を結んでいるのだ。
 加藤さんの批評が文明論までにも及ぶ多様で広範な活動がみられる(群像2019年9月号「江藤淳没後二十年」上野千鶴子)が、この「時代の課題の形」にある「ジコチュウ」「実感」「誤謬性」等は、私に吉本隆明と同時代の批評家であった江藤淳の「私情」を想起させないではおかず、「戦争」に黙って処した国民の一人を自分を同列においた一時代前の小林秀雄を、またこの友人から自分の恋人を奪取され「口惜しき人」となった中原中也を思い出させずにはおられません。加藤さんはこの他人に金を出させて「てんとして恥じないない」中原中也の生活態度を、この本の中でこう注している。
「中原にたかられて、俗人としてこれを断った人間がいなかった(らしい)ところに、当時の知識階層における『市民社会』の根の浅さが見えている。なぜなら、市民とはてんとして恥じない俗人にほかならないからで、そうした俗人が中原の頬をたたいたならば、どうだったか。ぼくは中原の詩にも、日本の社会にも、少しは良い影響があっただろうと、思わずにはいられない」(1984年)
 断っておきたいのは、この加藤さんが同書で「てんとして恥じないー中原中也」の冒頭に「ぼくは中原中也が好きである。いまは余り読んでいないが、ひところはもうずいぶんと読んだ。ぼくが中原の愛読者になったのは二十二くらいからのことで、これは中原の読者としてはだいぶオクテだということになる」と書いている。
 さきの作家の高橋さん論考によれば、最期となった病床で加藤さんは完本となった「太宰と井伏 ふたつの戦後」(2019年5月)の「自筆年譜」を、ぎりぎりまでていねいに直していたことを担当編集者から聞いていたという。この年譜には「ただ一人読める日本語の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ」(1970年・昭和45年・二十二歳)とある。オクテであろうとなかろうと、三島由紀夫が自決した1970年に、中原中也を読んでいる加藤さんの姿勢には注目すべき点があります。それは時代の風の勢いから自己の精神の領域を守り、集中する態度の現われがここに見られるからだ。
 私のささやかな疑問は、完本に「太宰治、底板にふれる」(初出「言葉の降る日」2016年)が「『太宰と井伏』再説」として再掲され、それが「私のいわば太宰に対する態度変更」の背後にあったものとは、いかなる経緯をたどり、どのようなものであるのかを、明らかにすることを通じて、加藤典洋という批評家の肖像画、せめてその輪郭線だけでも素描してみたいということにある。

(注1)加藤さんと高橋さんの対談(2014.9)にある「正しさの呪縛こそが想像力を奪う」(「対談―戦後・文学・現在」2017年11月)を参照して下さい。






加藤典洋試論(1)ー名辞以前からの投身

 批評家について語ることは、二人の人間を舞台にのせることである。少なくとも、日本における批評の草創期には、この二人の人間が現実に存在したと言ってよい。その二人とは中原中也と小林秀雄である。中原は生来の詩人であった。小林はこの中原との葛藤にみちた交流を通じ、自己の詩と小説を扼殺して批評の世界へと転轍した者だ。

 この批評における二重人格的特性を加藤は「一人二役」と表したことがあった。この両翼を一身に体現し、半ば自覚的に、半ば無意識裡に批評の世界へ転進した者が、先の戦争後(1948年4月)に生まれた加藤典洋である。
 江藤淳は「小林秀雄」の冒頭で自問した有名な文章がある。
「人は詩人や小説家になることはできる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するのであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか。」
 批評家は詩人や小説家のように、江藤が考えるのとは違う回路があることを加藤は実地に示したのである。

加藤が後年の自作年譜に、二十代のほぼ10年に亘る中原中也の詩と散文への傾倒を記したことは、瞠目すべきことであった。
 「無期限スト終結宣言のないため、時々孤立した文学部共闘会議の少数の集会に参加するほか部屋で無為にすごす。ただ一人読める日本語の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ」
 そして、エッセイ、小説、表現論、芸術論、評論などを執筆活動中、三島由紀夫の自決にあう。同年、大学院の試験を受けて落第。翌年もほぼ執筆と発表を続ける。就職のため数社の出版社に受験するがすべて失敗。72年2月、連合赤軍事件に衝撃。4月、国立国会図書館に就職。結婚した妻と中原中也の生地、山口県湯田を訪問したと記されている。
この一文は評伝ではないので、身体の不調により入院した最期のベッドで記した自作年譜から、初期のプロフィールの特徴となる一断面を拾い出したのにすぎない。
 一人の人間がどのような時代に生れ精神的に生き始めたのか。その人間がその時代とどのように交わり、そこに如何なる問題意識を育みに至ったのか、それは看過できない重要な事項であるだろう。誰よりも本人がそのことに自覚的である場合、その人間像をレリーフするには正面から行う以外の方法はないだろう。

 「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」
       J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』

 すでにこうした自問を抱懐している青年に、時代や社会などという外的環境が当の人間の思考に及ぼす影響を考慮しても無意味であろう。
 このル・クレジオのことばにあるのは、自己自身を白紙還元しようとする、はげしく根源的な意思。まっさらに生まれ変わろうとする野性の本能の端的な表明である。これこそ嘗てフランスの詩人にして哲学の徒ポールヴァレリーが、毎早朝に立ち返り迎えようとした精神の黎明であり、孤独な精神の競技場であった。

「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」(応募小説「手帖」銀杏並樹賞)

 学生時代に書いた小説の冒頭である。すでに特徴ある比喩の多用が見られ、あたかもサナギがその幼虫の背中からおずおずと羽根を覗かせているような初々しい書き出しである。
 この時代の若き加藤に窺えるものは、自己を白紙還元させよう、まったきの根源的な精神と思考の誕生、先鋭にして広闊な感性、好奇心溢れる柔軟なる感覚との類い稀な領域への投身とも表すべきものであった。
その青年が中原中也の詩的世界に没入している光景には、余人の容喙を拒む内密な精神の世界を窺わせるものがある。「最大不幸者にむかう幻視」に次いで、千枚を超える中原中也の草稿を紛失する事故に至っては、中原中也との運命的な交錯さえ予感させずにおかない。ここには青年期にありがちな反時代的な身振りは微塵もない。時代はそのとき三島の割腹自殺、連合赤軍の陰惨なる政治的な状況の渦中にあったのである。
 1966年(昭和41)の19歳から1977年(昭和53)の29歳まで、加藤典洋の青年期はこうして過された。平凡といえば平凡、非凡といえば非凡な文学青年の10年である。後に、50冊ほどの著書にすがたを現わすアクロバットな精神の歩行は、加藤典洋なる特異の思考スタイルを特徴づけるものとなるだろう。
 そして、ここに「自分と世界と戦いでは、世界を支援せよ」(カフカ)という客観「世界」からの内的な要請を自己の課題としたとき、かれは頑健な文学の徒として、強い倫理感にあふれた精神の一戦士となるのである。
 特異の思考からの反転と熟考を重ね、先鋭的ともいえる広い視野に亘るその批評活動は、戦後生れの一批評家に独特な陰影を形成した。この一文はその特徴ある批評家がたどった含羞さえにじませた独自の思考の軌跡を探索し、その斜面に光を当てようとの試みにすぎない。
 加藤の中原中也論が公的に発表されたのは、1981年(昭和56)著者33歳、「三つの新しさと古さの共存」と題した「新旧論」(「批評へ」所収)であった。「新旧論」の「中原中也―言葉にならないもの」には、「うた」の古さ、モノの否定、「下手のさへ」という三項目からなる考察がみられる。これは後年の単行本「語りの背景」の「意中の人びと」の「一本の蝋燭―中原中也」の4頁の短文に比較すると47頁とその12倍の分量になっている。
 この評論は加藤が本格的に世に問うた中原中也の論考であった。中也論は、秋山駿の「知れざる炎―評伝中原中也伝」が先見的であるが、これを踏まえた加藤の中也論は、その後の加藤典洋という批評家の思考と感受性の中核を為すと思われる独創が随所に窺われるものだ。20代のほぼ10年も雌伏していた中原中也が加藤の基底に刻まれないはずはなかったのである。問題はこの中也とその友人となった小林秀雄という日本の批評の創造者の二人が、加藤に落とした精神の陰影にある。先の「新旧論」が梶井の外、小林と中原の二人に集中していることに注目べきところだろう。
 先述したように、加藤は江藤淳の批判をふくんだ「アメリかの影」(1982年)から「敗戦後論」(1995年)を経て、「日本人の自画像」(2000年)、「人類が永遠に続くのではないとしたら」(2014年)、「九条入門」(2019年)等の批評文を雑誌の発表している。だがこれら約50冊に及ぶ著作の思考の淵源にあるものは、中原中也と小林秀雄という二人の精神からの授受と批判により、加藤の思考に刻印されたものからやってくる。それは江藤淳、吉本隆明、三島由紀夫という人物の評価と吸収においても、深い関わりを持つと見られるだろう。
 加藤典洋という文芸批評家にとって、中原中也とはいかなる存在であったかを最初にみておこう。
 まず、一番はじめの「新旧論」から23年後の加藤が(この時五十六歳)、その彼が二十五年まえの過去の一事を回想した文章である「語りの背景」(2004年)に所収された「意中の人びと」に注目してみよう。意中の人びととは、志賀直哉、中島敦、中原中也、三島由紀夫、橋川文三、大岡昇平、埴谷雄高、鶴見俊輔、吉本隆明という以上8人である。
 小林秀雄のランボー論はⅠ、Ⅱ、Ⅲとそれぞれ時を経て書かれているが、最後のエッセイに至って、平明で落ち着いた文章となっている。それと同様に、23年前の「新旧論」の中原中也への三つの視点からの熱意あふれた詳細にして長い論考と比較すると、中也の核心だけが一本の蝋燭のように、すっくりと加藤の中で収まり立っている。それはこんな言葉となってここに置かれているのだ。
「わたしは、たしかその頃、なぜイエスをはじめ、多くの宗教者が、四十日間も砂漠で断食を続け、試練にさらされた後、『悟り』を開いてしまうのか、自分にはそれが不満だ、というような意味のことを書いたのをおぼえている。もし、ここに四十日間、いや、四百日間、砂漠で断食を続け、試練にさらされ、不毛な努力を続けた上で、何の悟りも得ないで、帰ってきて、それまでと同じ生活をする人がいたら、そのような人のうちにはもっと深い宗教性があるのではないか、というよりその時もうそれは宗教性というものですらなくなっているのではないか。そんなことを、漠然と、考えていた。」

 こうした言葉の後にカフカの文学がぼんやりと浮びあがるが、加藤はどこからみても不毛としか思われない生活の中に、「言葉にならないもの」があり、その「言葉にならないもの」の前に、それをめぐる不毛な努力がありうるこ
と、だがその不毛な努力のうちに、詩作の努力の核心があることを、中原中也の散文と詩の言葉から啓示されているのである。(吉本隆明「言語にとって美とは何か」文庫解説)
 前段の「宗教性」の文章と呼応して、加藤の思考の中心にこれらの言葉が落ち着いてきているのは、56歳という年齢の故からもあろうが、加藤自身が中原中也の読書体験を思想として肉化しようと払ってきた、23年という不毛な努力の結果であったのにちがいないだろう。
 同文にやはり、25年まえの回想がみえる。就職したての国会図書館でのことだ。
「雨が降っていた。わたしの職場の机から国会議事堂の北の壁面が見えたが、そこには雨が降ると、少し黒ずんで雨の痕が同じ形で窓の下につくのだった。自分の生が、無意味な、反復だけの労働で何年も何年も消え、すり減っていく。そしてそのことに何の意味もない。その思いを形にすると、それがいまの自分の目の前にある景色になるとわたしは思った。そういう時期、つまり、大学を終え、就職し、結婚し、子供が生れるといった時期、わたしに読めるものといっては、中也のこうした日記、書簡の言葉、詩、散文くらいしか、なかったのである。」
 上記ふたつ加藤の文章のうちに、中原中也が落とした影を明瞭にみることができるだろうが、加藤が「新旧論」(1987年「弓立社」)で「中原中也―言葉にならないもの」において取り出したものは、先述したとおり、つぎの三項目であった。すなわち、1.『うた』の古さ 2.モノの否定 3.『下手』のさえ ということである。この三つに通底する注目すべきことは、中原中也が「我が詩観」(1936年)で述べたつぎの言葉、
―だが、いよいよ、では詩をやろうかと決心するためには、詩の限界を見定めてからでなくてはならぬと思ふのであった。
―といふことは、言換れば、詩が詩であるために必要の条件は何かといふことを査べることであった。
 加藤は、中原がどのように「うた」を掴んだかの詳細を述べ、ベルグソンの「時間と自由」における「意識に直接与えられるもの」を言語の関係の認識として自分の詩法の中核に据えたのだと。ベルグソンの「時間」を中原は「名辞以前」と名づけ、それは「言葉にならないもの」とみたうえで、詩はそれを言葉にする。そこにはどのような表現手続きが想定可能か、と加藤は思考をつづける。
言語を広義にとった場合、モノとコト、つまり空間性と時間性という二つのベクトルがあり、そのベクトルの両端に、美術、彫刻という空間芸術が、他方のコトのベクトルに生まれるのが音楽という時間芸術である。ところで狭義の言語であるコトバは、色彩絵具と音符という二つの言語の中間に位置し、モノ性とコト性を半々にもつ。詩人の中原は「うた」をこうして掴んだのだと。
 ―子供の時に、深く感じてゐたもの、―それを現わそうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となって実現する。
 ―元来、言葉は、説明するためのものを、それをそのまゝうたに用ふるといふことは、非常な困難であって、その間の理論づけは可能でない。
 ―大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。
          (「河上に呈する詩論」1925年)
 加藤は、中原に当時最新の思想であるベルグソンを教えたのが、小林秀雄であったのは疑いがないといっている。それはともかく、中原の「名辞以前」は詩にとっての「どうしようもなさ」で、詩人の努力と“碍子”によって接続される電線のように「隔てられつつ架線される」のだというのだ。余計なことだが、加藤の比喩のを批判するむきもあるが、この碍子の比喩は悪くはないだろう。
 さて、さらに加藤が中原中也から学んだことがあるので、それを指摘しておきたい。それは中原の「3.古さの選択」にあるものだ。
 前段で加藤は中原の「うた」の獲得の手続きを述べていた。そこで言葉のモノ性の否定、言葉の時間性の重視が、文語を用い、七語調を踏襲した「古さ」の選択をとるまでには、もう一つの過程を経る必要があることを述べてこう言っている。中原は自分の選択が、同時代人の眼に「古めかしく」映ることに意識的で、それは、たまたま、「古い」形をとったのではない。それは「古めかしい」ものでなければ、ならなかったのであると。
 加藤はそこに、「伝統や因習」を「古さ」と見ない、それらのものの受け取り直しの視点によって、中原の考えはデカルトの「良識はこの世のもので最も公平に配分されている」から、どんなに「気むずかしく容易に満足しない人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とう思わない」という『方法序説』序文の冒頭に示された考えに、つうじる傾きをもつのだと。そして、それを中原が自分の言葉で彼の「新しさ」(モノ性)の否定が、「古めかしさ」の選択として現われる所以を考えようとするのだ。
 中原は自分の詩を「近代詩」と考えている。なるほど自分は「古い」言葉(文語)を使用しているが、それは「材料」であって、「詩」じしんの価値は「材料で何を作るかで決る」。「古い」言葉を使用したからといって「古い」価値に投降したことにはならない。自分は自分の表現しようとするものを日本語の「詩」に盛ろうとして「古い」言葉を選んだのだ。なぜ材料として「古い」言葉を選んだか。「目がさめたらゐた」自分だけは改変できないということ、自分のなかに、動かしがたいものがあるということではないかー。中原が、自分の詩を書く、という行為の中に、自分の努力だけではどうにもならないものを多く見ていたことは、特徴的である。詩に書かれるべきものーそれを中原は「名辞以前」と呼んだーは、その深浅を努力で変えることのできるようなものを意味しなかった。


 中原中也は「その世界普遍性―三島由紀夫」他の論考と同様にその一人となり、各人4頁づつと凝縮されたわけである。逆に言い換えれば、23年を経てもなお加藤のなかに残り、充分な根を下ろして存在してきたと考えるほうが妥当であろう。冒頭の八行を引用する。
「中原は、大学の四年目の頃、突然わたしの中に入ってきた。きっかけは、はじめて見た一篇の詩の、さらにその中の一部分、言葉のリズム、口調、そんなものの向こうにほの見える表情だった。そして、その後、二年間の大学生活の間、彼の言葉は、わたしのほぼ唯一の世界との窓口となり、そこを通じて、かろうじて、食べ物が外から、差し入れられるという状態が生れた。その状態は、少しの拡散と収縮を繰り返しながら、わたしが出版社の就職試験に落ち、大学院の試験に落ち、かろうじて入ることのできた国会図書館の雑誌貸し出しの係に職を得る中、それだけが生きる支えといった感じで、睡眠時間を削って書いたかなり多い量の原稿がひょんな偶然からなくなる三十歳の時まで、八年間ほど、続いた。」
 「それだけが生きる支え」とは大袈裟ではないかと思われるかも知れないが、赤裸々で切実な口吻がここにこもっていることは確かに感じられる。
 2004年刊行の「語りの背景」の「あとがき」を読むと、この本に収められた文章のほとんどが「1999年から2004年のあいだ、それほど目立たない場所に発表された」とのことである。著者の自作年譜(2019年作成)に拠れば、この本が発行されたときの著者の年齢は56歳であった。2002年「新潮社より小林秀雄選考委員の委嘱をうけ」、その翌年、「明治学院大学の学部の内部事情から早稲田大学へ移ることを決める」年齢は55歳。なぜこうした年譜と著者の年齢に拘るかというと、この本の「あとがき」を上記のように書いた著者の年齢が56歳、その前後の著者の経歴に注意を促しておきたいとの思いからである。
 ここでしばし著者の人間に注目してみたいのだ。「料理法から料理の味を知ることはできない」と、著者が言っていたことを思いだし、テキストから離れて人間としての著者の嗜好や性格を知りたいとの思いからである。
 まずは「あとがき」に添って話しを続けてみることにしよう。
「・・・場所に発表された。しかしながら私にとっては大切な文、他に、小さな論、全集月報への寄稿、書評、エッセイなどが収められている。この時期の文章一束を晶文社の中川六平さんに『丸投げ』し、取捨選択、編集の一切をお願いしたが、しばらくして送られてきたのが、このような内容の一本だった。
 書く文章からだけ推測して、一部の人々にわたしはかなり『強面』の描き手だと思われているらしいのだが、ここに収められた大半の文章は、そういうものではない。一見したところ、尻切れとんぼのような文章が多い。あるいは、はげちょろけた芝生。わたしは「強面」というよりは「尻切れ」である。よって、この本は、わたしの真実(?)をよく伝えている。わたしをよく知る中川さんの力で、わたしの中で、自分としては好きな文章が、うまく摘み取られ、集められている。
 語りの背景、この題名も、中川さんだが、本書の性格を的確に示している。語りは舞台の上で発せられ、それなりにはっきりしているが、背景は暗い。うらびれ、茫洋としている。そして事実、わたしは暗く、うらぶれ、茫洋としており、自分の書くものの中では、こういうテイストのものが、好きである。
 人は、ものを書いたり読んだりしているが、実は、基本的には呼吸をして、ものをたべて、生きている。その、生きているという事実だけが、わたし達がアリを見下ろすときに、やってくる知見だろう。ここでわたしは、時々考えたりもしているが、あとの大方の文章では、うつらうつらとして、間抜けた風情をみせている。呼吸をし、ものをたべ、おだやかに生きている。それがわたしの語りの背景だ。アリとしてのわたしの真実である。
 2004年の心象風景―。
 そんな言葉が心に浮んでくる、つぎに何かが思い出されそうなのだが、言葉にはならない」とある。
 このあと、夏にカナダのヴァンクーバーに居住したときにみた、落陽の美しいことで名高い浜辺の一風景を、著者はつぎのように記している。
「(中略)。夕日が、赤くなり、いよいよ水平線の向こうに落ちかかり、最後、姿を消すまで、一時間ほどもかかっただろうか。夕日が隠れた。そのとき、背後の森からいっせいにおびただしい羽虫の群れが現われ、浮遊しはじめた。羽虫の正体は、うすばかげろう。うすばかげろうに包まれながら、急に不安に駆られ、帰り支度をしたが、あれは、いったい、何だったのだろう。」
 本の「あとがき」としては、異色と言っていいほどに、自身の心情を覗かせた文章が綴られている。
 終わりに、2004年(平成16年)56歳の年譜の項の末尾から、数行を引用をしておこう。
「7月、『テクストから離れて』、『小説の未来』が第7回桑原武夫学芸賞を受賞、8月、早稲田学新設学部での英語での講義に備え、カナダ、バンクーバーのブリティシュ・コロンビア大学英語夏期講座に参加。11月、東京大学院『多分野交流演習』で『関係の原始的負荷―『寄生獣』からの啓示』と題し講演。同月、晶文社より『語りの背景』を刊行。」
 因みに、この年譜は(2019年3月記す)として、著者が病に倒れ都内病院において書かれたものである。






加藤典洋―最後の5年間

 2014年から19年の5年間。永遠が遂にその人本来にその姿を変えるまで・・・のKの業績を振り返ってみようではないか。
 2014年の「人類が永遠につづくものでないとしたら」から、その翌年の「戦後入門」「村上春樹は難しい」。2016年の三冊の本「日の沈む国から」(政治・社会論)、「世界を解らないものに育てる」(文学・思想論)、「言葉の降る日」を経て、2017年の「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」の後、1年の空白を挟んで2019年4月の「9条入門」までの実働5年間が、Kの最後の著作活動期間と見られる。
 なぜならKは2019年5月に亡くなった。死後3年目の2021年に「9条の戦後史」が刊行されたが、この本の帯には後事を託する加藤典洋の言葉が、はっきりと次のように刻まれているからである。
「何が一番、自分たちにとって、大切なのか、
 また、どうすることが、いま、自分たちに必要なのか。
 重要なのは、この問いには、憲法9条も平和主義も、アメリカも日米安保も、占領憲法の廃棄も明治憲法の復元も、含まれてはいないということです。
 そういう思いが私たちのおのおののなかに、それぞれ異なるかたちで分かちもたれているとしても、この原初の問いの力が、それをカッコに入れる役割を果たしているのです。」





ドロップ

小学校の昔話。遠足のリュックになにを持っていくのか、前の日から気にかかることであった。お母さんの手作りの海苔で包んだおにぎりとゆで卵。それに幾つかのお菓子を持って行くのが常だった。母親がくれるお金で何を買うかが思案のしどころ。まずは、ガム、チョコレート、森永のキャラメルが頭にうかぶ。それとできれば、ミカンなどの果物が欲しいところだが安くはない。それにリュックにそれらはかさばって重たかった。甘党だったぼくはせんべいはやめて、カリントウが好みだ。風邪をひかないと食べさせてもらえないバナナは、とうてい手がでない。口の中にしばし甘い味わいで楽しませるドロップがあったが、あまりに幼稚っぽいお菓子だった。こんな具合に、明日遠足となると、前日から持っていくものの買い出しで頭を悩まされた。翌日、朝一番で運動場に整列して、朝礼台からの校長先生のお話しをきくのだが、もうこころは上の空で遠くに行っていた。クラスが順番に並んで学校の門をでると、大きなバスが道路に、数台が並んでいる。こころはときめいていくばかり。空はお天気でお日様も輝いている。いかにも麗しい遠足日和。ぼくたちはつぎつぎとバスに乗り込んでいく。椅子に座ると、すぐに先生の点呼が始まる。バス酔いの不安が胸によぎるが、はしゃいでいるせいで、もうどうでもよくなっている。バスの後ろから、学校の門の前に、校長先生の傍でこちらを、さびしそうに見ている七海君が見える。七海君は給食代が払えないので、先生の給食を半分食べさせてもらっているくらいなので、もちろん遠足代も払えなかった。七海君はそれで校長先生、給食のおじさん、おばさん達といっしょに、遠足のバスを遠くから見送りしているのだ。バスが走り出すと、七海君がちいさく手をあげて、こちらを眺めて手をふった。
 七海君の家は貧しいのだが、両頬はぷっくりと赤くふくらみ、まるでおむすびのかたちそっくりな裕福そうな顔つきをしているのだ。だが鼻から鼻水がいつも二本垂れている。それを着ている服の袖でふいているので袖がベコベコになっているのだ。七海君はいつも金ボタンのついた一張羅の黒い服を着ていた。その七海君がバスの後方の窓から見えなくなると、ぼくたちはなんだかほっとしてバスの椅子に座り直すのだった。ぼくたちはガムを噛みキャラメルを頬張り、バスの窓から外を眺める。窓から頭を出すのは禁じられていた。今日は江ノ島へ行って、海を見るのだ。海をみるとぼくは走りだした。リュックの中で缶カラが鳴る音がした。缶入りのドロップなんてぼくは入れたおぼえはない。内緒にいれてくれたとしたら、それはお母さんにちがいなかった。缶の中で色とりどりの飴が転がって鳴る音が波の音に混じり合った。そのドロップの飴の味はいつまでも口の中にとろけるような甘い夢の味覚でいっぱいにしてくれるのだった。

 


IMG00143NO1_convert_20220529091427_20220529091803eca.jpg IMG00144NO2_convert_20220529091527_20220529091932021.jpg
IMG00145NO3_convert_20220529091629_202205290920422df.jpg IMG00142ドロップ_convert_20220528133602 



プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード